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熱心というのは

熱心というのは阿弥陀さまの側につかう言葉だった。

私が熱心になって救われるのではなくて

阿弥陀さまが私を救うことに熱心になって下さった。

だから私が救われる。

それで「若不生者のちかい」と言うんだ。

弥陀の心を聞かせて頂いてもなんにも変わらない私。

そんな私を助けるとおっしゃる阿弥陀さま。

だから「若不生者のちかい」と言うんだ。

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by sunao-bluelite | 2018-10-06 12:53

私がすること

信前にすることは何ですか?

聞法、念仏、信心の沙汰。

では、信後にすることは何ですか?

聞法、念仏、信心の沙汰。

何も変わらないではないですか?

何も変わりませんよ。

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by sunao-bluelite | 2018-09-05 12:04

離さない

最近お聖教から離れている。
けれど念仏は私を離さない。
なんまんだぶ、
なんまんだぶ。

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by sunao-bluelite | 2018-05-12 21:18

別離の苦しみについてふれた、覚如上人のお言葉

「別離などの苦に出遇って、悲しみ嘆いている人には、仏法の薬を勧めて、その悲しみにふさがれた心を教え導くべきである」

人の境界に生きている限り避けて通ることのできない八種の苦の中で、愛するものと別れなければならない苦は、一番切実です。そのような苦に遇って悲しんでいる人には、まず人間界は、生まれてきたかぎりかならず死なねばならない境界であって、いつまでも住み続けることはできないという道理を説き、つぎに安養の浄土は常住不変で、安らかな領域であることを説き聞かせるようにしなさい。そのうえでいたずらに嘆き悲しむばかりで、憂いも嘆きもない浄土へ生まれさせていただこうと願わなかったならば、未来もまたこうのような悲嘆に遇わねばなりません。「ただ愁嘆の声ばかりを聞かなければならない」この六道に別れを告げて、「かの安らかな涅槃の境界に入る」といわれた浄土へ参らせていただくことに勝る幸せがありましょうかと、説いて納得させていくならば、愛するものと別れて目の前が真っ暗になるような悲嘆にくれていた人の心も少しずつ晴れて、念仏の衆生を摂取すると誓われた阿弥陀仏のみ教えに帰依しないことがありましょうか。

このように悲嘆にくれている人に、悲しみに悲しみを添えるような見舞い方を決してしてはなりません。もしそのようなことをしたならば、慰めたのではなくて、いよいよつらく悲しい思いに陥らせたことになりましょう。

親鸞聖人は、「酒には、<憂いを忘れさせてくれるもの>という名があります。これをすすめて、心を解きほぐし、少し笑いが出るくらいに慰めて帰るべきです。そうであってこそ本当にお見舞いをしたことになる」とおおせられました。よく心得るべきです。

    覚如上人『口伝鈔』(現代語訳:梯実円和上)

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by sunao-bluelite | 2018-03-30 08:46

源左さん(愛別離苦)

赤ん坊の49日も済んでしもうたな・・・。

なんまんだぶ、なんまんだぶ。

親さまぁ。

あの子は今ごろ慈悲深い観音さまに導かれて

極楽浄土の親父殿に手渡され

お爺さんになった親父殿に

「おお、初孫じゃ、初孫じゃ~」

「かわいや、かわいや」

と抱きしめられて

光輝く仏に成って

二人してオラ達を見守ってくれているのかなぁ。

親さまぁ。

どうぞあの子を地獄に堕とさんでくだされや・・・。

源左さんの、愛別離苦が伝わって

スナオの心に響きます。

自分の力ではどうしようもないことには

ただ泣くことしかできません。

自分の力ではどうにもできないこと、

それを人は絶望といいます。

源左さんの気持ちを思うと

涙が出ます。

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by sunao-bluelite | 2018-03-29 19:10

源左さん

源左さん

因幡の妙好人。

農家の生まれで、若いころから仕事熱心。

仏縁深い家に生を受けながらも、お寺参りには興味無し。

19歳でお父さんを亡くす。

「まことの親さまをたのめよ」の遺言で聞法がスタートする。

熱心な聞法者となるが聞き開けずに、10年が経つ。

源左29歳の時、待望の男子を授かる。

しかし、生まれたばかりの子どもは亡くなってしまった。

名前をつける間もない突然のことだった。

その数か月後、源左の心に信が開ける。

お父さんと息子が、源左にとっての知識だった。



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by sunao-bluelite | 2018-03-28 18:47

空也上人(追記)

声の仏に合掌するんです。

声の仏に素直に合掌させて頂けることが、

それが親子名乗り。

それを聞というなり。

(スナオ)

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by sunao-bluelite | 2018-03-23 08:55

空也上人

空也上人

念仏ひじり。

親鸞さまより270年ほど昔のお方。

 口からなんか吐いている
 きもちわる~~

スナオが初めて空也像を見た時の印象。

まるく開いた口から、六体の小さな仏さまが出ている。

如来廻向のお念仏を称えさせて頂くようになって

見方が変わったように思う。

阿弥陀さまは、十方衆生のために

声の仏に成られた。

衆生を救うために、阿弥陀さまが選んだ方法。

空也上人が、口から声の仏を出している。

ううん、違う。

声の仏が、空也から現れ出ている。

空也の眼前に仏様がいらっしゃる。

いま声の仏に成って。

スナオの口からも、仏様が現れ出ている。

「阿弥陀如来は、ここを去ること遠からず」

とは、このことなのかな?

このことだと思う。

空也上人がとても身近に感じられるようになったのでした。

なんまんだぶ。

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by sunao-bluelite | 2018-03-23 08:32

はひふへほ(後編)

捨てずに取っておいたメモ。
捨てる気にならなかった言葉。

 は・・・半分でいい
 ひ・・・人並みでいい
 ふ・・・普通でいい
 へ・・・平凡でいい
 ほ・・・ほどほどでいい

この言葉をいただいたのは、いまから5年以上前だと思う。
おそらく仕事でおつきあいのある人から教えてもらった言葉。
仏教のお仲間から頂いた言葉ではない。

仏教を求めるということは、私にとって
「平凡」からの脱却であり「人並み」からの脱却だった。
「同じ事の繰り返しの人生」から脱出するためだった。
それが目的だった。

でも、ちょっと待てよ。
「平凡でいい」と思える心に憧れながら、非凡を求める。
「普通でいい」と思える心に憧れながら、特別を求める。
これは矛盾ではないか。
矛盾しているから、永遠に叶わない。

「平凡?それとも非凡?」
「普通?それとも特別?」
どっちが本当のおまえなんだ?!
どっちのおまえになりたいんだ?!
そう聞かれたとしても、定まらない。
「ただいまの私」は少しも定まっていない。

矛盾を抱えている私に、答えが与えられた。
その答えは南無阿弥陀仏だった。
「非凡で特別な六字」にふれたときに、
「平凡で普通な自分」を受け入れられた。

「ただいまのお前でいいんだよ」
の阿弥陀さまからのお言葉は、
「おまえは非凡で特別な存在だよ」という意味だった。
ただしそれは、イチローや羽生選手や藤井棋士に対して
私たちが抱く思いのようなものとは違う。

「おまえは非凡で特別な存在だよ」とは
世間からみた非凡ではない。
他人からみた特別ではない。
阿弥陀さまにとって、「非凡で特別な存在」なのが私だったということ。

阿弥陀さまは、私との関係を「一子地」だとおっしゃる。
「この弥陀のかわいいひとり子だよ」と。
「そのままのおまえでいいんだよ」と。

「は、ひ、ふ、へ、ほ」
この言葉を教えてくれたのは誰だったのか。
昨日から考えているけど、やっぱり思い出せない。
思い出さなくていいのかな。
阿弥陀さまのお遣いの人だったのかもしれないから。

なんまんだぶ。


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by sunao-bluelite | 2018-03-22 12:45

はひふへほ(前編)

部屋の片づけをしていたらメモが出てきた。
自分の字ではない。
誰からもらったのかも忘れてしまった。

 は・・・半分でいい
 ひ・・・人並みでいい
 ふ・・・普通でいい
 へ・・・平凡でいい
 ほ・・・ほどほどでいい

と書いてある。

このメモをもらった当時、「こんな風に思えたらいいな」と思った。
そう思ったから取っておいた。
このメモから感じたのは「自分を律する力」「現状を肯定する力」だった。
仏教でいう「中道の教え」や、最近よく言われる「自己肯定感」のようなものをこの言葉から感じた。
「こんな風に思えたらいいな」と憧れた理由は、
なかなか自分をコントロールできないから。自分を肯定できないから。

だけど、あの頃に憧れていた心に
なぜか、今なっている。
自分の心が変わっていったのではない。
自分の心を変える努力をしたのでもない。
法の御徳に向かった時に、憧れていた心にさせて頂ける。
法とは南無阿弥陀仏。

ただいま、ここで、南無阿弥陀仏に肯定される。
この私のままで。
南無阿弥陀仏の御徳によって
「ただいま、ここで、生きる」
「この私として生きていく」
「私」としての人生をまっとうするんだ。
そう思える。

あの頃の憧れが、自分が予期せぬかたちで、またひとつ叶っていた。

なんまんだぶ。

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by sunao-bluelite | 2018-03-21 09:15