「阿弥陀さまに出会う」ということは

「自分が一番大切にしてきたものを手放す」ことでした。

「一番大切なものを手放せたのだから、

 他のものはもっと簡単に手放せるのではないか」

と思っていたけれど

どうもそういう訳にはいかないようです。

私の心がいうことをきかない。

私の煩悩はそれくらいに強い。

まるで太くて丈夫な縄のようです。

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# by sunao-bluelite | 2018-10-17 10:42 | Comments(0)

熱心というのは

熱心というのは阿弥陀さまの側につかう言葉だった。

私が熱心になって救われるのではなくて

阿弥陀さまが私を救うことに熱心になって下さった。

だから私が救われる。

それで「若不生者のちかい」と言うんだ。

弥陀の心を聞かせて頂いてもなんにも変わらない私。

そんな私を助けるとおっしゃる阿弥陀さま。

だから「若不生者のちかい」と言うんだ。

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# by sunao-bluelite | 2018-10-06 12:53 | Comments(0)

私がすること

信前にすることは何ですか?

聞法、念仏、信心の沙汰。

では、信後にすることは何ですか?

聞法、念仏、信心の沙汰。

何も変わらないではないですか?

何も変わりませんよ。

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# by sunao-bluelite | 2018-09-05 12:04 | Comments(0)

離さない

最近お聖教から離れている。
けれど念仏は私を離さない。
なんまんだぶ、
なんまんだぶ。

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# by sunao-bluelite | 2018-05-12 21:18 | Comments(0)

別離の苦しみについてふれた、覚如上人のお言葉

「別離などの苦に出遇って、悲しみ嘆いている人には、仏法の薬を勧めて、その悲しみにふさがれた心を教え導くべきである」

人の境界に生きている限り避けて通ることのできない八種の苦の中で、愛するものと別れなければならない苦は、一番切実です。そのような苦に遇って悲しんでいる人には、まず人間界は、生まれてきたかぎりかならず死なねばならない境界であって、いつまでも住み続けることはできないという道理を説き、つぎに安養の浄土は常住不変で、安らかな領域であることを説き聞かせるようにしなさい。そのうえでいたずらに嘆き悲しむばかりで、憂いも嘆きもない浄土へ生まれさせていただこうと願わなかったならば、未来もまたこうのような悲嘆に遇わねばなりません。「ただ愁嘆の声ばかりを聞かなければならない」この六道に別れを告げて、「かの安らかな涅槃の境界に入る」といわれた浄土へ参らせていただくことに勝る幸せがありましょうかと、説いて納得させていくならば、愛するものと別れて目の前が真っ暗になるような悲嘆にくれていた人の心も少しずつ晴れて、念仏の衆生を摂取すると誓われた阿弥陀仏のみ教えに帰依しないことがありましょうか。

このように悲嘆にくれている人に、悲しみに悲しみを添えるような見舞い方を決してしてはなりません。もしそのようなことをしたならば、慰めたのではなくて、いよいよつらく悲しい思いに陥らせたことになりましょう。

親鸞聖人は、「酒には、<憂いを忘れさせてくれるもの>という名があります。これをすすめて、心を解きほぐし、少し笑いが出るくらいに慰めて帰るべきです。そうであってこそ本当にお見舞いをしたことになる」とおおせられました。よく心得るべきです。

    覚如上人『口伝鈔』(現代語訳:梯実円和上)

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# by sunao-bluelite | 2018-03-30 08:46 | Comments(0)