命の尊さ

座間でひどい事件があった。

こういう凄惨な事件の報道を聞くと
「さるべき業縁の催せばいかなる振る舞いもすべし」
の親鸞聖人のお言葉がいつも浮かぶ。


命の尊さが分からず、自分の人生も他人の命も大切にできない。
被害者の女性のひとりは「死にたいけど一人では怖い」と言っていたようだ。
生命の尊さが分からない、という点においては、加害者も被害者も共通していたと思う。

曽我量深先生の著作を開いたら、ちょうどこのような文章があった。

 我が身の上にいちいち本願を頂くと、今度は他人の苦しみもまた分かる。

 理屈ではない。自分で真実に長い間おたすけについて苦しむなら他の人も分かる。

 人間は罪を犯したり脱線したりするが、人間が迷うのはただ迷うのではない。

 子どもが間違うのは、子どもが真実を求めて、得ないからであろう。

 その求めているのは何であろう。それは本願である。

 衆生が脱線し、間違いをする。普通の人は見捨ててしまう。

 しかし阿弥陀はその間違いを起こしておるのは、間違いの元があるに違いない。

 子の間違いは、真実を求めて自暴自棄しておるからであろう。

 その迷いの根本をつかんで迷う者を捨てぬ。これが大悲である。

 天親の五念門の行の、廻向門を釈するのに、一切衆生の苦悩を捨てず廻向を首として大悲心を成就したとある。


 今日は思想が乱れている。

 若い人が悪いと老人は言うが、なぜ青年が間違いをするのか。

 真実がないからである。真実に飢えているのである。

 その真実を得ない悩みである。

 青年は、真実がないと自暴自棄している。

 真実の象徴、南無阿弥陀仏が大切である。

 真実は他ではない。真実は南無阿弥陀仏である。

             (曽我量深集・上・11)

この言葉は昭和28年のものだが、平成の時代になっても何も変わっていないとつくづく思う。
私たちが絶望した時に本当に救ってくれるのが、仏様の心。
宿善まかせとは言われるけれど、たまたま御法に遇えたことをありがたいと感じる。
いま自暴自棄になっている人、いま絶望の真っただ中にいる人、どうか大悲を聞くご縁に遇って頂きたいと
願うばかりです。

南無阿弥陀仏


                  


[PR]
by sunao-bluelite | 2017-11-10 14:27 | Comments(0)